岐阜県(瑞穂市・大垣市)
美江寺宿 Mieji-juku
美江神社の隣にある美江寺観世音を名の由来とする「美江寺宿」。本陣1軒と数件の旅籠からなる小さな宿場町ではあるが、枡形の曲折がある美江神社周辺には格子窓を持つ古い家や道標なども見ることができ、街道沿いにウォーキングを楽しむ人も多い。宿場のある瑞穂市では、美濃中山道連合に加盟し、宿場や中山道を表示する看板を設置したり、景観まちづくり実行委員会を立ち上げたりと、歴史資産を活かした景観づくりにも積極的だ。美江寺宿では、毎年5月に「美江寺宿場まつり」が開催され、和宮降嫁の様子を再現した仮装行列が評判となっている。
アクセス
公共交通機関
樽見鉄道「美江寺駅」から徒歩約10分
お車
名神高速道路「岐阜羽島IC」から約40分
見どころ
美江神社・美江寺観音堂
平安時代の文献に「正六位上美江神明」が登場し、江戸時代には「熊野権現」、明治14年(1881)に「美江神社」と改称。旧町内の日吉、八幡、貴船神社、神明宮を合祀し、境内には秋葉神社、美江寺観音堂が建ち、美江寺宿跡の石碑や宿場の解説板などが設けられている。
小簾紅園
『落ちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ』 皇女和宮が降嫁の折、呂久川(現在の揖斐川)御渡船の際、色麗しく紅葉しているもみじを一枝、舷に立てさせて玉簾の中から詠まれた歌。遺徳を偲び、この呂久の渡しの跡地を中心に、和宮が見た楓の庭を含めた一帯が公園として整備された。
呂久川と渡し
呂久の渡しは、赤坂宿と美江寺宿の間を流れる呂久川(現揖斐川)にかかる渡し場で、天正8年(1580)に織田信長の子、信忠によって設けられた。呂久の渡しの川幅は平常時で90m、大水では180mにも及び、流れの早い難所であった。たびたび洪水が起きていた呂久川は、大正から昭和にかけての河川改修で直線化され、「揖斐川」と名称も変更された。かつて呂久川が流れていた場所に、現在の小簾紅園がある。
船頭寄「馬淵家」・明治天皇小休所跡
織田氏支配の頃から揖斐川の呂久の船渡業を営む権利を持っていた「馬淵家」。慶長15年頃には、呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、「馬淵家」は、船頭8人を有し苗字帯刀を許されるほどの力のある船年寄りであった。当時の面影が残る屋敷の門の横には、明治天皇小休所跡碑が建てられている。
赤坂宿 Akasaka-juku
「赤坂宿」は、古くから杭瀬川の水運の渡し場として発展してきたが、転機が訪れたのは皇女・和宮御降嫁による『お嫁入り普請』。街道沿いが大改修され、その一部は今も残っている。
アクセス
公共交通機関
JR「美濃赤坂駅」から徒歩約8分
お車
名神高速道路「大垣IC」から約25分
見どころ
赤坂港会館・赤坂港跡
元々は本流であった杭瀬川は、享禄3年(1530)の大洪水で流れが大きく変わり川幅も狭くなった。支流となっても水量が豊富で、赤坂港は物資の運搬に重要な役割を果たし、一時は5百隻もの船が往来した。一角にある赤坂港会館では、赤坂港の関連資料を多数展示している。
赤坂本陣公園・赤坂宿本陣跡
文久元年(1861)10月20日に京都を出発した和宮一行。25日朝に柏原を出発し、関ケ原で昼、垂井で休憩をとり、赤坂宿でお泊りになった。当時、赤坂の本陣は間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数はおよそ239坪もあり、玄関・門構えも豪勢なものであった。
旧清水家住宅
享保15年(1730)に建築された建物とされ、大きな商家の町屋構造の建物。南面1階は、ほぼ全面に格子が入り、米屋を営んでいたこともあり、2階には米を収納する広い部屋が残る。また、平成24年(2012)に所有者からこの住宅の寄贈を受け、現在は市の重要文化財に指定されている。
お茶屋屋敷跡
お茶屋屋敷とは、関ケ原の戦いの後、征夷大将軍となった徳川家康が京へ上洛するために4里ごとに造らせた将軍家専用の休憩・宿泊場所のこと。中山道六十九次の中で唯一残っている貴重な史跡で、現在は牡丹園(4月下旬が見頃)として有名。
お嫁入り普請探訪館
皇女和宮が御降嫁の際、大垣藩が和宮一行の宿泊先として中山道沿いの空き家や空き地に54軒もの旧造築をした。これが「お嫁入り普請」という。探訪館は、前から見ると2階建て、裏から見ると平屋造りの「ばんこ」と呼ばれる特殊な構造の建物。
昼飯塚古墳
ヤマトタケルの兄・大碓命(おおうすのみこと)の墓。全長150m、東海地方最大級といわれる前方後円墳で、国の史跡に指定されている。